倉林明子

倉林明子

メルマガ登録

高橋きみさんとのお別れ

 5月20日夕刻、突然の訃報が入りました。
 看護師としても、市会議員としても大先輩の高橋きみさんが亡くなった知らせでした。
 5月22日の通夜、23日の告別式に東京から駆けつけました。告別式で、弔辞を読み上げました。
 きみさんとの別れの言葉を、ここで紹介します。

弔辞

 きみちゃん。「おう!元気にしてるか」大きな声が今でも聞こえてきそうです。こんな形であなたとの別れを迎えることになるとは夢にも思いませんでした。四郎さんをはじめみなさんが、突然のきみちゃんの死を受け止めきれずにこの場にいます。さみしがりやだったきみちゃん、一人で逝かしてしまって本当にごめんね。みんなでお見送りするから、どうか安心してください。

 きみちゃん。みんなにそう呼ばれて愛された人でした。でも、私が二十歳のころ初めて会ったきみちゃんは本当に怖い人でした。ともに活動する中で、こわさの理由はほどなく理解できました。看護職出身のきみちゃんはこよなく看護を愛し、現場を離れても常に看護職としてたたかいの中心にいたからです。同時に京都市会議員としての仕事に体を張って頑張っていたからでした。

 職能団体である看護協会の民主化を求めて、あなたが京都府看護協会や全国の看護協会の総会で発言する姿に、看護職はどれだけ励まされたことでしょう。市会議員として住民要求の実現へ、住民とともに運動し実現する。常に希望を示して、それを勝ち取る道筋を示すだけでなく、仲間と一緒に汗を流すことができる大好きな人でした。おいしいものも大好きで、私にたくさんの仲間をつなげてくれた人でした。

 看護の現場が大好きだった私が、きみちゃんと同じ政治家の道に進むことになったのは本当に偶然の出来事でした。1994年の府会の補欠選挙でまさかの当選を果たした私が1995年、京都市会議員となったことを自分のこと以上に喜んでくれたきみちゃん。わが子を紹介するように理事者に紹介してくれたことは忘れることができません。残念ながら、持病が悪化する中、まだ自分がやらなければならない仕事が残っていると悔し涙を流していたきみちゃんは、1999年、5期20年の市会議員生活を終えることになりました。

 それでも、やっぱりきみちゃんはきみちゃんで、議員を引退してもたたかいを諦めることはありませんでした。健康状態も持ち直し、精力的な活動を続け、市会議員団幹事長となった私に、厳しいけれどあたたかい叱咤激励をし続けてくれました。2012年参議院候補となった私に、きみちゃんは、ずっと励ますばかりで、怒られることがなくなってしまいました。当選してからは、ひたすら喜んであちこちの集会に呼んでくれました。きみちゃん、誇らしげに紹介してくれて嬉しかったよ。でも、怒られないのもちょっぴりさみしかったんだよ。

 きみちゃん。伏見では4月、あなたの悲願だった、5人の日本共産党議員が誕生しました。あなたがまいた種は、全国に広がり確実に芽を吹き、たたかいを引き継ぐ力になっています。今度は、あなたにそだてていただいた私たちが、体を張って頑張る時です。

 きみちゃん、ありがとう。とうか、安らかに眠らず、しっかり私たちを見張ってください。本当にありがとう。あなたに恥ずかしくない生き方をすることを誓ってお別れの言葉といたします。

倉林明子

 (スタッフ)


IMG_1096.JPG