1960年福島県西会津生まれ。看護師11年。
京都府議1期、京都市議5期。
京都医療労働組合連合会役員、京都府看護協会会員委員、
党京都市会議員団幹事長などを歴任。
2013年7月参議院京都選挙区で当選。2019年7月再選。
現在、党副委員長・ジェンダー平等委員会責任者。
趣味は掃除、読書。好きな言葉は「誠実」。
2022年10月現在、厚生労働委員会、行政監視委員会、消費者問題に関する特別委員会に所属。
生い立ち
福島県西北部、山あいの町。冬は1メートルを超える雪に覆われ、父は出稼ぎで一家を支えました。
父は日本共産党の農業委員・町議を務めていました。日本共産党への偏見が根強い中、農家のくらしをよくしたいと奮闘する父の姿が原点になっています。
おら、看護師になる!
兄と妹、弟は生まれながらに弱視で、物心つくころから畑仕事に追われる母の代わりに家事を任されました。きょうだいたちがいずれは全盲になるとわかり、医師を志しますが、とても医大の学費が出せるわけはなく、看護師を目指しました。
高校時代は家から離れ、下宿生活。学校のあとは旅館でアルバイトをする日々でした。家に負担をかけず、看護師になって独り立ちする。その一心で乗り切りました。
当時日本で一番学費が安かった京都市立看護短大へ進学。京都へ発つ前夜、母はボロボロの預金通帳を見せ、「農家は食っていけねぇ。しっかり手に職つけるまで帰ってくるな」と告げたのでした。
短大1年生の時、民青同盟で日本共産党のことを学ぶなか、「社会は変わるし変えられる」。貧困をなくし、一人ひとりの能力が発揮できる社会を目指すことが明記された綱領に感動し、入党しました。
卒業後、右京病院(現・京都民医連中央病院)に就職。患者さんの前向きな変化が楽しくて仕方がない。その人らしく過ごせるためのお手伝いがしたい。一看護師の仕事は自他ともに認める天職でした。
子育てしながら労働組合運動にも奮闘。「患者さんのためにもっといい看護がしたい。だから、もっと看護師を増やして」と、当時大きな話題になった「ナースウェーブ」の運動に参加しました。
貧困無くしたいと
日本共産党へ
府・市議会議員として
看護師としての仕事も組合運動も充実していた時だったので、1994年の府議会議員補欠選挙への立候補を要請された時は本当に悩みました。しかし、看護師として見てきた患者さんの苦しみをなくすには政治を変えないといけないと、立候補を決意しました。
市民の声・現場に
とことん向き合う
府議会議員としての初質問は「NICU(新生児集中治療室)の増床」。質問をきっかけに府は初めて実態調査に乗り出し、NICUの充実を実現させました。
1995年、京都市議会議員に当選。高校奨学金廃止問題では幹事長として奮闘、与党議員も巻き込んで廃止の方針を撤回させました。
同和行政・不祥事問題、高速道路無駄遣い追及などでも貫いたのは、現場に依拠し、とことん調べること。市長も認めた調査力・追及力は現在につながっています。
参議院議員として
2013年、参議院京都選挙区に出馬・初当選。京都の声を国会へ届けるため、奮闘しています。
「増税された消費税が払えず、滞納額が膨らんで一括納付か差し押さえを迫られる」と、中小業者の悲痛な訴え。実は国税庁は新たに申請による一括納付を認める制度改正を行っていたのですが、それが周知されていませんでした。丹念に資料を読み込みこの制度を見つけ、財政金融委員会で質問。麻生太郎財務相も落ち度を認め、すぐ対応が行われました。業者団体の運動とも相まって、2年間で6万件以上が認定されました。
さらに、同様の差し押さえ中止が国保料についても活用できることを質問で引き出し、市町村に周知するよう要求しました。
無理な差し押さえ
やめさせる
原発ゼロをめざして
福島を故郷にもつ者として、また日本一の原発立地地帯である若狭湾からもほど近い京都の議員として、「原発ゼロ」は悲願です。
住民の安全が確保できない避難計画の問題を繰り返し取り上げてきました。
厚生労働委員会では、年金削減問題、在宅介護の利用制限問題、障害福祉サービスの負担増問題、過酷な看護労働問題など、看護師としての経験を生かし、追及しています。
伝統産業の支援や民泊問題、米軍レーダー基地撤去など、国会と京都とのパイプ役として、京都の声を国政に届けています。
医療・福祉の問題で
追及